今夏、大都市札幌の住宅地にヒグマが出没。固唾をのんで経緯を見守った日々だった。市の決断は人命尊重を第一に、クマは銃器で駆除という結末。しかし、これで一件落着ではない。決断は遅すぎたといわざるを得ない。その後、市には500件もの苦情が殺到したとのこと。だが、反響を恐れている場合ではないと思う。市民の安全・安心を第一に考えてほしい。たとえ、山に返しても人里に行けば労せずして美味しい食にありつけると知った以上、クマは何度でも来る。犠牲者が出れば、誰も文句は言わなかったろうが、それを待っていていいものだろうか。クマが可哀想といった次元ではない。動物より人間が上位にあると思うのは思い上がりであり、クマは人間から優しくされたなどとは思わない。ヒトは自分たちが生物多様性の輪の中の一員であることを忘れてはいないだろうか。野生動物とヒトは生物多様性という命のつながりの中で対等な生き物として対峙すべき相手なのであり、畏怖すべき対象でもある。
数年前、アメリカのイエローストーンでクマに人が襲われ。クマは殺した人間を隠れ家に隠し、餌として少しずつ食べていたのだ。いったん、手に入れた獲物は自分のもの。決して離しはしない。このクマを生かしておくか捕殺するべきか二つに割れての激論の末、クマは射殺された。人間の肉の味を覚えたクマは又、人を襲うという理由からである。私たちは感情ではなく、クマの習性を学び、冷静に対処していくことが必要である。人口減少が進む中、老いゆく市民が今後向き合っていくのは次々に生まれてくる若くヤンチャな野生動物たち。数だけでも太刀打ちできる相手ではない。ましてや市街戦となれば人間に勝ち目はない。これは北海道だけの話ではない。イノシシ、シカ、サルにの被害に悩む本州はもっと大変かもしれない。
国立環境研究所 生物・生態系環境研究センター室長の五箇公一氏は生物多様性とは恐ろしい世界だと語る。命を支え合っているといえば聞こえはいいが、実情は食うか、食われるかの世界。地球にいる生き物はわかっているのだけで175万種。だが今、生き物の絶滅が進み1年間に4万種というスピードで生き物が絶滅している。五箇氏によれば人類滅亡の危機もあるということだ。
追記:この日の夜遅くテレビで、クマのニュース。場所は網走。青々とした畑の中に大きな黒い物体。跳ぶようなスピードで道路を横切り、次の畑に移っていく。怖さがよぎった。また、来るだろう。農家がクマやシカのために作物を作るようになっては本末転倒!公共交通機関が無くなっていく。加えて、国は北海道に公立医療機関も減らせと言ってくる。老後、病院に見放されていくのではたまらない。故郷の土地を捨てて都会に移住する方が増えるかもしれない。そうなると耕作放棄地・居抜きの空き家が増加。これはもう野生動物の天国としか言いようがない。国というものは国土の隅々に万遍無く人が住んでいてこその国。ともあれ、クマは時速50キロ以上だ。動きが速いので網走市だけではどうにもならない。まずは隣町の大空町と共に大捕り物を始めるそうだ。子供たちが命がけで学校へ行くようになることは避けなければならない。それにしても、こんな時、行政の窓口に専門家がいないというのは心細い。旭山動物園の坂東元園長は、行政ハンターが必要だといわれていた。
クマとは、共生、共存は難しいです。エリア分けして、都会にクマが迷い込まないようにしなくてはなりません。棲み分けの為には、クマにとって、都会は恐ろしい処である観念を植え込まないといけません。夜中、収集日外に生ゴミを出すなど、もってのほかです。クマにとって、ヒトを狩るなど、雑作無い事です。「今、そこにある危機」そう思います。
(神奈川県ハンター ナカムラ アキ氏)
札幌のクマ騒動、固唾を飲んで見守っていました。私の疑問はなぜすぐに銃器を以て駆除せず、三日間も放置していたかです。
野生のクマが都会に餌を求めて出て来なければならないような環境にした責任は、確かに人間側にあるでしょうが、実際にクマが街に出没したら、子供たちが、いえ大人でさえ通勤通学もままならない。命を懸けて学校に行くようなことは避けたいもの。実害がなかったことは幸いでしたが決断が遅過ぎました。今回の熊騒動は、今後を考えさせられました。(東京 八倉巻恭子氏)
本当に、『ヤンチャな野生動物』たちに心が痛みます。(札幌 菅原民江氏) 関連記事