日本に生息する鹿はニホンジカの一種類であるが、北海道に生息するエゾシカは奈良のホンシュウジカより体型が大きい。動物は寒冷地の北方にいくにしたがって大型になる傾向がある。ちなみに、南の屋久島のヤクシカの雄の体重はおおざっぱに40㎏、ホンシュウジカは6,70㎏であり、エゾシカは130㎏以上と明らかに大きい。
明治維新以降の北海道開拓事業が進められる以前のアイヌの生活においては、鹿は至る所に生息し、川に上ってくる鮭以上に主要な食糧であった。肉は蛋白源であり、血液は塩分源であった。鹿の角は鍬や矢先などの道具として利用され、皮は衣類や防寒具などに利用された。
鹿猟は弓矢や仕掛け弓で射止めるが、大量に捕獲するのは、群れで食料を求めて移動する冬場が本格的な猟期であった。道東の厚岸に鹿落しと言う所があり、鹿の群れを犬を使って崖の上に追い込み、そこから崖に落として捕獲した。また屈斜路湖の和琴半島に追い込み、湖に飛び込んだ鹿を丸木舟で捕獲した。十勝の鹿追では、平地に柵で囲いを作り、そこへ追い込み捕獲した。これが地名の由来である。
江戸時代は狩猟が漁労と共に主要な産業であり、とりわけ鹿猟が盛んであった。しかしその狩猟方法は弓等であり、乱獲になるほどではなかった。蝦夷地の産物である干から鮭さけや昆布と共に、鹿や熊、猟虎、海豹などの毛皮が本州の米や酒、着物、鉄器、漆器などと交換された。明治になり、獣皮が北海道の産物として位置づけられるようになり、特に明治6年(1873)に渡島の亀田から森に至り、噴火湾を渡って室蘭そして千歳を経て札幌に至る「札幌本道」が開通すると、多くの内地人猟師が来道し、銃を使用したので、捕獲数が急増した。
明治6年から12年の間は、鹿猟の最盛期であり、毎年数万頭の鹿が猟獲された。鹿皮の産出量は明治6年(1873)で約55,000枚であり、8年には76,000枚と最高に達し、その後漸減し、13年には13,000枚と激減している。この激減は前年の大雪によると考えられる。凍死や餓死する鹿がおびただしく「十勝沿川に鹿屍累々」と記されるほどである。なお、この当時の熊皮の産出量は200~350枚である。
開拓使は明治11年に勇払郡美々と13年に厚岸に缶詰所を設立して海産物と共に鹿肉缶詰の製造を始めた。しかしながら乱獲傾向に加えて、12年の大雪のため、生息数が激減し、絶滅の危惧が生じた。そのために13年に美々缶詰所、14年に厚岸缶詰所での鹿肉の缶詰製造は廃止となった。
乱獲を防止し、鹿を保護する必要から、開拓使は明治8年に規則により、鑑札制度や狩猟地域と期間を設定した。その後も鹿は減少し、大正8年(1919)には、わずか16頭しか獲れなくなり、翌年には禁猟にした。鹿が増えて農作物の被害が増加すると狩猟を解禁し、生息数が大きく減少すると規制することを繰り返した。戦争が始まる頃には大勢徴兵され、密猟者がいなくなり、生息数が増加した。1900年代後半から気候の温暖化や猟師の高齢化あるいは減少による狩猟頭数の減少などにより急激に増加し、数年前には生息数約60万頭、年間の農作物被害約60億円となった。道庁では、2004年に「非常事態宣言」を発し、捕獲数の増加を図っており、今日では生息数が約48万頭、被害額が約46億円と少し減少している。
(参考文献:犬飼哲夫「わが動物記」、北海道「新北海道史第3巻通説2」)
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