2019年9月29日(日)第7回エゾシカフェスタを開催しました。
会場は昨年に続き北海道大学学術交流館小講堂。
講師としてお迎えしたのは、旭山動物園 園長 坂東 元氏です。
テーマは「エゾシカから見た北海道の自然や野生動物との共生」。
チケットは売りに売れて、当初は定員150名の予定を変更。参加者は190名を超えました。今夏は、札幌の住宅街にヒグマが出没。驚異のニュースは、全国を駆け巡り、人間と野生動物とはどう係りあっていくべきかを改めて考えさせられました。坂東園長は、私たちの不安を先取りするように、未来に向けた共生のお話を準備されていました。(以下は筆写のメモです。録音はしておりません)
30年前、シカなんていなかった。エゾシカが増えた背景は、気候変動の影響だけではない。草が大好きなエゾシカにとって、人間による耕作放棄地の増加、無防備な牧草地、そこ此処に(例えば道路の法面)植えられた芝生は願ってもない餌場。愛護的な感覚から雌シカの駆除を禁止したなど本格的な駆除が遅れたことも要因の一つ。また、ヒトの生活圏から野良犬や野犬がいなくなったことで、野生動物がヒトの生活圏に入りやすくなった実態も挙げられる。
人の生活圏に一旦、足を踏み入れた動物は、どんどん侵入してくる。誰かがどうにかしないと私たちの生活基盤が無くなってしまう。自然保護や動物愛護の観点から「人間の都合で命を奪うべきでない」との考え方もあるが、動物はヒトが優しくしてくれるとは受け止めない。ヒトは無害な存在だと認識するようになる。明日の命の保証がない野生動物が危険な場所に自ら近づくことはない。動物園のシカでさえ、人が近寄れば緊張し場所を変える。自分と関わりあう生き物の習性を見抜き、対面する生き物の振る舞いや感情の変化を敏感に察知し行動する。人間と野生動物との関係は陣取り合戦。こちらが退けばその分距離を詰めてくる。彼らとの市街戦になれば人間に勝ち目はない。ハンターを増やせばいいというが、甘いものではない。日本の国で銃を持つということは大変なこと。自分たちの生活圏をどう守るか。クマもエゾシカも根っこは一緒だ。取り返しのつかない事態が忍び寄っていることに気付かなければならない。
シカの増加は人の生活圏にクマを近づける可能性がある。5~6年先の実情を先取りして起きるのが知床。道路際に芝が綺麗に管理されているように見えるのはシカが食べているから。シカが歩くと穴ができ、クマの好物である蟻が増えて、クマが出てくる。草が好きなシカは 芝を食べたい。バスが通っても平気。人も恐れない。人をなめきっている。現在、シカ対策には狩猟とフェンスしかないが、フェンスに絡まって死んでいるシカをクマが食べる。近年、知床では小鹿を連れて歩くシカは10頭に1頭しかいない。幼いシカを連れ歩くのは危険なのだ。生後間もない小鹿は森の茂みに隠し、母親が一日に2~3回授乳に通う。こうして小鹿が親と暮らすのは3週間。クマは母鹿と別れたばかりの子鹿を狙う。クマの肉食傾向が強くなってきた。草より肉の方が美味しいとわかった。栄養的にも効率的。北海道にはヒグマが1万頭。彼らが肉の味を覚えると怖い。冬眠しない。肉があり続けるからだ。そして、ゴミに興味を持つ。今夏、知床では、犬や牛がクマに襲われたが、これも、シカの子を襲うという延長線上での出来事だ。
知床のクマたちは、コンクリート道路の上を悠々と歩き、人や車が近づいても臆することはない。知床で起きていることは、やがて道内各地で起こる。現に今夏、札幌では、パトカーに先導され、マスコミに見守られながら、クマは自由に堂々と振る舞っていたではないか。8月は山の恵みが乏しい時期だが、ヒトの生活圏には恵みが沢山あることを学んだのだ。人間界は労せずして餌を得られる場所。こうして彼らはヒトの生活圏に馴れ、自分の生活圏として取り込んでいく。ヒトという生き物にも慣れていく。怖いものなし。札幌の美しい夜景を見ながら育ったクマが既に3代目、4代目を迎えている。犬や猫なら人が可愛がればなついてくるが、クマが人間になつくことは決してない。
さて、シカは夜間、街中にまで来ている。気付かないだけである。夜間は撃たれないことを知っている。街に宵闇が迫ればシカたちのお出かけの時間。「そろそろ行くか」と腰をあげる。人々は見えない所で起きていることには関心を示さず、見えるところに対しては感情的になる。関心は自分にとっての被害だけ。庭先に花を植えてシカが食べれば害獣。自分が関わっていなければ無関心だ。自然そのものが破滅に向かっていることに目を向けようとしない。
シカは有害鳥獣に指定されている。保護すべきものではない。7年前にハンター資格を取得し、旭川で毎年行われている個体数調整のための「巻き狩り」に参加。資格取得の経過がテレビ放映された為に、全国から非難が集中した。「可哀想だ。動物を保護する動物園の人間が命を奪ってどうする!」というもの。「動物園見学にウチの子は参加させない!」というのもあった。その全てに対応してきた。年間10数万頭のエゾシカを殺すことについては、誰も何も言わない。しかし、目の前の一頭が殺されることについては可哀想だと苦情が殺到する!生命を奪うということについて、もっと逞しい考え方ができないだろうか。
長かろうが短かろうが命の終わりは来る。生命とは生まれて死ぬから生命なのだ。命の終わり方を大切にできなければ生きていることも大切にできないと思う。可哀想だという次元の問題ではない。どういう死を迎えるかが、生きることを考えるきっかけになる。
毎年、10数万頭のエゾシカの命を奪って私たちの生活が成立しているのは事実である。この事実を私たちは共有すべきではないか。
今年の捕獲数は「●●万頭だったね」で終わる話ではない。美味しい野菜が食べられるのも十数万頭の命を奪うことで成立しているのだ。生きるということは、誰かの命を奪って生きているということでもある。
ヒトは生命観の基準がぶれ続ける我儘な生き物である。
シカの数を増やしたのは一体誰なのか。生態系は「食う・食われる」のシステムで成り立っているが、最後の調整者オオカミを失った。命の連鎖を人の手で、断ち切ってしまったのである。もはや、エゾシカは人と共生できない動物になってしまった。交通網も整っていない明治時代に、たった20年間でシカの天敵オオカミを絶滅させたのだ。用いられたのは毒まんじゅう(毒薬ストリキニーネ)。オオカミは自分だけ良い思いをしようとはしない。良いものを見つければ群れに持ち帰るから、忽ち、絶滅するのも無理はない。オオカミ絶滅で、人とエゾシカは「共生から敵対へ」と変わった。オオカミと厳しい冬でバランスがとれていたシカの数もオオカミを失い、暖冬で冬の淘汰圧も弱くなった。食料も得やすくなった。結果エゾシカは増え続ける。
シカ対策に生態学的な視点が欠落していた。なぜ、街中に出てくるのか。相手の生き方・生態を知らなければならない。雄大な大自然と言われる北海道だが、例えば自然を分断する高速道路が野生動物たちに与える影響を知る必要がある。ヒズメのある動物であるシカは、岩山を登ることもできるが、舗装された道路は苦手である。しかし、彼らは道路の向こう側に行きたい。道路際や法面には大好きな芝もある。仕方なく、道路を横断する。そうしなければ永遠に道路の向こうには行けないのだから。道路上では銃は撃てないし、罠もかけられない。交通事故が多くなるのも当然であろう。外国では、動物たちのことを考え、道路を造る際には、彼らのためにう回路を作ったりしている。
相手だけを変えようとしてもダメ。エゾシカの増加は、私たちの営みが生み出したものである。本来なら、人間の福祉のために使われるべき税金が投入されて捕獲されていることを忘れがちである。結果として、奪った命の半分以上がゴミとして棄てられている。エゾシカの屍骸が野積みにされている現場を何度も見た。これでいいのだろうか。
エゾシカを食文化に育てること。そのことがエゾシカを大切に思うことに繋がり、共存の未来が見えてくるのだと思う。10年スパンで エゾシカを「ふるさとの味」にしていけばいい。今日もシカ、明日もシカというわけにはいかないからだ。臭い、こんなもの食べられないといわれた羊がジンギスカンとして北海道の味になるまでには長い年月を要している。
公益社団法人 札幌消費者協会「北海道エゾシカ倶楽部」 代表 武田佳世子
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